からだとことばをつなぐもの

こういうの読んでいて思うんだけど、将来だけでなく学校以外の生活もイメージして個別支援級に取り組まないとと思う。

この本を読んでいろんなことを考えた。

やっぱりどういう形であれ言葉をコミュニケーションのツールとして機能させるには受け取る方の感性も育てないといけない。子ども時代の経験がその感性をはぐくむ基礎になることを考えると、これに関しては学校教育の交流教育の果たす役割は大きいと思う。

 最近自閉症スペクトラム系の当事者の人たちが受け止められやすい接し方がマニュアル化されてきた。(構造化とか、低い声での短い指示、特性の理解 とか)それはそれでもっともなことだし、当事者の人たちが理解されてきたということは喜ばしいことである。

ただ専門的に携わる人たちは
地域の人たちや家族、周りの人たちが勉強しないと自閉症の人たちと接することができないと思わせる過剰な隔たりを作っていないかなと常に自問することが必要だと思った。

最近の子は放課後はデイへ、幼稚園に行かずに療育へと、専門的な扱いを受ける機会はどんどん増えるけど、みんな一緒に育てるノウハウをもっていた学童、幼稚園、保育園が後退しているのではないかと懸念している。

そして専門的な療育が1日続いて、息が切れそうになっている子も見かける。




一昔前のこの本に出てくるエピソードが暖かく、専門の人たちも含めてみんなでよく子どもを観察し、試行錯誤しながら愛情深く付き合っていた時代が確かにあったことを考えると、今、自分にかけているものが見えてくる。研究ばっかりして子どもをみない人になるなというのが恩師の教え。この言葉の意味を最近やっとわかりかけてきたように思う。

古き良き時代を懐かしんでいるのではない。その頃は自閉症の人たちが今より激しいパニックや自傷で悩んでいたのだから。今、いろいろわかってきたことがいいという前提に立ちながらも、大阪で教育に携わった経験があるものとして、横浜においても、共にそだち、共に学ぶ姿勢を持ち続けていきたいと思う。