応仁の乱がわからないことがわかってきた。

娘が西陣界隈に下宿をしている関係で

西陣という名の由来が応仁の乱山名宗全が京都の西側に陣をひいたからだということを知った。

京都の人がいう前の戦は太平洋戦争でなく、応仁の乱のことだというお話もあるぐらい(まあ、そんなわけないと思いますけど、知らんけど。)有名な内乱ではありますが、

 

じゃあ、実際のところどんな戦だったのかと言われると、もともと歴史に疎いこともあってよくわからないのである。

 

で、調べてみた。

 

どうも足利家の後継者問題に絡んで、あっちの家やこっちの家が結託して、自分に有利になるほうへ動こうとしたら、敵方であるそっちの家が遠くの家と結託して戦おうとしたところ、味方と思っていた家があっちに行ってしまったり、こっちに戻ってきたり、

もう京都から離れた大名家も巻き込んでもうグチャグチャ。

将軍家の足利など全く節操もなく、情勢が変わるごとに有利なほうへ日和り、昨日の敵が今日の味方また逆もありって感じ。一体どうゆう性格をしているのかと疑問に思う行動がことをややこしくさせる原因で、ただずるずると内戦を続けてしまったわけ。

 

で、結局初期に戦いを始めた、山名氏と細川氏は和睦したのに、戦いが終わらないというもうカオスな感じにどうしてよいかわからない、、、、

 

誰も得をしなかったし、偉い人たちはだれも死ななかったし、

なんのために戦っていたのか、もはやわからぬまま戦っていた感じ。

 

というのが私が今わかっているところで、よくわからなくことが当たり前だということだけがわかった。

誰か教えてください。